昭和44年4月1日 朝の御理解
御理解第100節
「めでためでたの若松様よ枝も栄える葉も茂るというのではないか。金光大神は子孫繁盛家繁盛の道を教えるのじゃ。」
ある先生は、言われました。この御理解100節、ここのところのおかげを頂く為に、教祖様の、すべての御教えがあると。なるほど、そう言うことも、言えんことはないと思いますですね。これはもう、人間誰しもが、願いに願って、已まないことだと思うんです。そういう、大変なおかげ、そういう道を、金光大神は教えるのじゃ、とこう仰っておられる。金光大神の、そういう、繁盛の、人類、繁栄とでも申しましょうかね、その、繁盛を、必ず、教えのどこを頂きましても、神も助かり氏子の立ち行くと言う、あいよかけよの、働き合い。そこから、人類の幸せと、幸福と言うものが、約束されるんだと、金光大神は説いておられます。
そこんところを、大体、分からせて頂かなければ・・。神も助かり、氏子も立ち行く。ただ、私どもだけが、家繁盛とか子孫繁盛と言うだけ、そういう、おかげを頂く為には、神も助かると言う、いわゆる、信心共栄と申しますね。神と人とが共に栄えていくという、そのところを、力説に力説されておりますですね。
その、なら、おかげというのは、どういうようなおかげになってくるかと言うと、これは御理解16節ですね。「無常の風は時を嫌わぬというが、金光大神の道は、無常の風が時を嫌うぞ。」と、言うほどしの道が、金光大神の道なのです。御理解16節です。「無常の風は時を嫌わぬというが、金光大神の道は、無常の風が時を嫌うぞ。」と。言わば、不可能を可能にしていけれる道なのである。とてもそんなことが出来るもんかと。もし出来るとするなら、枯れ木に花たいと、言うような事がです、その枯れ木に花が咲いていく道なんです。金光大神・・・。そういう例えば、そういう働きに持って行くと申しましょうかね、そういう働きになってくる道を、付けていくのは、だから私どもなんです。
私どもの、一生の願いというものがです、ほんとに、子孫繁盛家繁盛の、この道を歩いていきゃ、間違いないと、その、子孫繁盛家繁盛の、道の第一線上に出て、確信の持てれる、信心と言うか、生活というものがです、なされていくことをお互い、願うわけでございますけれども、果たして私どもの現在の信心で、そういう確信の持てれる、絶対と思えれる、ような道をお互い辿っておるだろうかと。焦点が間違っているような事はないだろうかと。目標が違っておるようなことじゃなかろうかと、言うことに、反省してみなければいけないと思うんですね。
昨夜、関さんのところの、宅祭り、それから、正式に御霊様の、奉祭式、がございました。今まで、お祀りしてあったお宮を、また、新しい大きなお宮に変えられました。ご承知のように、あちらに新築できましたから、もうすべて、何もかにも新しく、そして大きくと、言うようにその、ほんとに、まあようも、男手でも、出来ないような、言うなら、世間の荒波を乗り切ってでも行くと言うか、そういう難しい世の中にあってですね、まあ女ばかり、娘さん達二人、お母さんでようもこんな事が、出来たことだと私は、思わせて、初めて、参りましたが、思いました。ほんとに、田舎には、珍しい見事な、お店ができ、まあ住宅のほうも、とても親子三人では勿体ないような、立派な広い、おうちが出来ております。間取りなんかも、まあ一々、ご神意を伺うてからのことでございましたが、ほんとにセンスの良い、良いおうちが出来てます。
あちらへ参りましてから、何か知らんですけれど、まあ、宅祭りといやその家の後大祭と同じですから、今日はおめでとうございますということを、皆さん、ご挨拶に申します。ならその神様の前に、初めてお礼をさせてもらう時にですね、もう心から神様おめでとうございますと、言わなければおられないような、私の感情ですかね、そういう心が湧いてくるんですよ。神様おめでとうございますと。
ほんとに、まあ有難いことだと、思わせていただき、どうしてこんなふうに、こんなふうに気持が湧いてくるだろうかとこう私、思わせて頂いておりましたらね・・・、私そこんとこちょっと、言葉の順序を忘れましたけれども、まあ意味だけは( ? )。★一期の願いが成就したからじゃということを頂きました。一期。一期というのは、一生の願いと言ったようなことですね。一期というのは一期と書いちゃる。
そこでです、例えば関さんたち親子のその、一期の願いという、誰でもあの、普請なんかをね、これはまあ一生一度に、一遍出来るかできないか、分からないほどしに、やはり、まあ、言うなら、家にとっては大事業なんですよね。しかも、小さい家を美しく、古い家を新しくというのですから、これはもう一生一代の、その人その人の、私は大事業だとこう思うです。
そのことが、成就したからではなくてです、その願いの焦点が違っておったと言うこと。それはね、ここの御造営が、の、話し合いが出来て、皆さん、いろいろ協議に協議を重ねた結果、合楽に土地を買って合楽に、お宮を立て建立しようという、話し合いになりました。そして、お互いが、無記名投票をいたしまして、私はこれこれ、これだけは、おかげ頂きたいと言ったようなものを、集めました。私、よく記憶しませんけれども、確か2000万か2500万くらいは、これなら出来るぞと言うような、ことでございました。実際はそれが、2倍になり3倍になって、だんだん膨れて、その予算は膨れ上がってまいりましたですよね、ご承知の通りです。
その時にですね、関さんたち親子が願ったことはね、とてもとても、合楽のお広前、合楽の教会がです、私ども一生一代のうちまた、あるやらないやら分からない。これは、親子三人が本気で一生懸命ならせて頂いて、ね、これこそ、一生一度の願いとして、一期の願いとして、この御造営に取り組もうというのが、一期の願いだったんですよ。それはお届けもございました。ですから、自分でこれくらいの事は、と言うて、お願をされまして、それから、だんだん予算が、あの、多くなりましたら、それだけの、額をずーっと増やしていかれたです。もちろんそういう大金が、あろうはずもなかったですから、最後のところは、借金してからでした。これは自分自身が、一生一代の大仕事をしようという時、自分が家を建てようという時には、どっから、銀行から、銀行から金借りてからでも、やっぱり思いたつで、やるでしょうが。やりかかったんですから。
ね、それがね、自分のこととしてと、言うことよりも、もうその、神様へかけられる願いというかね。一生一代のうちにこういう事がまたとあるやらないやら分からん。この際この時に、おかげを頂いておかなければと言う、その一期の願いがね、そこにかけられた。まあ、それを厳密に言うなら、曲りなりのことかも、曲りなりの事に違いありません。
そして、御造営が終わらせていただいて、大体は、どっか、福岡あたりに、移転をされるはずじゃった。あそこを売って。それがその、だんだん話しがね、あのような事になってきた。もうそれこそ実に、その辺のところはスムーズだった。何かにちょっとひっかかりゃ、( ? )きなさい、っていう私の流儀なんです。だから随分長い時間掛かりましたです。長い日にちが、あそこまで持っていくまでには。それこそここの御造営の時と同じこと。ね、まあ、言うなら、必要な金額が、必要なだけ、もうとにかく、仕事が忙しくなってきたんです。もちろん借金も、おありましたでしょうけれどもです。それがね、その借金の出来ることのスムーズさ。そのことについての、と言うような、おかげになってきたんですね。
私は、そのことを頂きましてね、はーお互いがかける願いと言うもの。ね、例えば皆さんでも、これだけは一生一代のうちに、これだけは、ここんとこだけはおかげを頂きたい、と言う、願いを皆さん持っておられるでしょう。果たしてそれが成就するかせんか分からん。ならですね、これは、私はね、神様の願いが、成就すると言うか、神様がお喜びいただけるようなことにです、一期の願いと言うものが、かけられると言うこと、そういうところに、焦点を置いた信心。
なるほどこの方の、金光大神の道と言うのは、不可能を可能にしていけれる道なんです。それはただし、様々な問題、様々な願いの事がですね、まあ言うなら、これは、自分を中心にしとる願いにおいても、然りのことが言えます。ね、熱心に、いよいよ、打ち込み打ち込んでまいりますところから、おかげが受けられますけれども、その頂いたおかげがです、ね、神も喜び、氏子も喜び、金光大神をもの喜びといったようなおかげに、なっていかない。なっていかなければいけん。
自分は息子に、祈りを、願いをかけておる。自分で一生一代のこれが願い。自分は、こういう店を持ちたい。自分はこういう家を建てたい。だから、そこんところに願いを欠けて一生懸命な信心して、よし、出来たにしてもですよ、それは、私は、神の願いの成就と言うこといはならないと思う。これならもういよいよ、間違いがない、やっぱ、神様のお喜び頂けれるという、例えて言うなら、この頃からもうあの御造営がございましたよね。もう本当に神様が先頭に立ってござると思わなければおられないと言うような事がある。
ですからそんなその、えー、一期の願いといったような大きな、その大きな願いとでも申しましょうか、そういう願いがね、いつもかつも、また、そう簡単に、自分の心に、定められるとか、思われると言うことは、もうほんとに、まあ滅多なことじゃない。そういうチャンスを、受けて、立たせてもらうと言うことは、いつもかつもあることじゃないけれども、信心の稽古をこうやってさせて頂いておって、いよいよの時には、いざという時には、そのことに、一生一代の、大仕事としての、それをです、願いがかけられ、そのことに没頭すると言うか、そのことに、精進すると。
ただ、神の用をたしゃ氏子の用は神がたしてやると仰る、そのことよりも、もうだからもっと大変な、大きな意味合いを感じますですね。神様もそれを、一期の、まあ言うならば、神様に一期なんてことはありますまいけれども、神様にも、そこに、一期の願いが立てられる。神様も、願いを立てられる。その願いを立てられたその願いに対して、私どもが、奉賛するというか、それを、私は、今日頂くこの御理解の中からですね、感じます。
家繁盛子孫繁盛の道と言うのはね、そういうところから、立てられていくもんだ。もちろん、それで、一遍終わったからもうそれで良いと言うことはない。なら神様が、先頭に立って、どうでもこうでも合楽にこういうお広前を建立しようと、神様が発願なさった。そこに、信者が、そこんところに、同調して、信者一同も、そのことに発願をした。だから、そのことに、例えば一期の願いをかけて、もうこれは、またとある事じゃないから、このことに本気で打ち込ましてもらわな、と言うて、それに、打ち込んだ。打ち込んだ人が、今度は、自分のほうの、いわば、新たな新築の、おかげを頂いた。そのことにももちろん、だから、神様が先頭に立ってくださるような感を感じた。
そこに私は、信心共栄と言うかね、神様がまず、助かってくださって、私どもも、それはまあ、そこを関さん宅を例にとるなら、こういう普請でもするということが、一期の願いであったかも、それは分かりませんけれども、その一期の願いを、一応おいて、神様のほうを、一期の願いとされた。そこから、例えば、なら、ああした見事な(ご神意?)が出来た。言うならば、とても、出来そうにもない事柄です、不可能、現在の、あの人たちの、まあ、状態では、出来そうにもない事が、可能になったと。
この辺のところはもうほんとにこの、何と言うでしょうかね。いわゆる、金光大神の、教えて下さる道、いわゆる家繁盛子孫繁盛の道、を体得すると言うことには、やはり、一期の願いといったような、本気での、一生懸命の願いが、立てられなければならない。
これは、私のことを、自分で思うてみても、同じ様なことが言えると思う。いつもお話ししますように、引き揚げて帰ってきた。こういう、惨憺たる状態では、ほんとに、親に、安心してもらうことも喜んでもらうことも出来ない。そこで、いう、一期の願いが立てられた。私ほんとにそう思うた。これ以上の家に住もうとは思いません。これ以上の物を食べようと思いません。これ以上の物を着ようと思いません。とてもとても一生、風呂んどん入ろうとは思いません。私は、本当に親に喜んでもらいたいとか、安心してしてもらえれるおかげ頂けたら、本当にそう思うたんですよ、私は。
私はね、そう言うような願いがね、確かに、神様に通うたと思うんです。当時、これ以上の家に住もうと思いませんと言ったような家はどういう家じゃったかと言うと、もう最後の時には、秋永先生が、ご承知のように、4畳半に畳も敷いてなかったんです。ガタガタいうような荒削りの板が並べてあるだけであった。雨が降ると言うたらもうだだ漏りでした。けれども私はもう、それ以上、以上の家に住もうとほんと思わなかったです。
そん時私は、これ以上の物を食べようと思わなかった、と言うのは、まあ、普通はその時そん時( ? )2度2度ですたいね。2度の食事が、もちろん、お茶粥さん、茶粥でございましたがです、私はその当時、その茶粥を、丼一杯でした。一日。けれども、これ以上のものを頂こうとほんとに思わなかったです、私は。当時は、もう夏服、冬も夏もない、それ一着でした。ほんとにこれ以上の物を、着ようと思わなかったです。とてもとても、一生風呂んどん入ろうとは、ほんとにさらさら思わなかったです。今から考えてみると嘘のようですけれども、ほんとに思わなかったんですから。そりゃそうでしょう、朝、朝晩お水を頂きますから、その風呂のよう、必要( ? )ですもん。
それがほんとに、毎日温泉のようなお風呂に入らせてもらい、御殿の様なと言われるようなお家に住まわせてもらい、ほんとに、この、反物は一反何万しますよ、と言うような着物を、毎日着せて頂いて、最近こうやって歯が悪けりゃ悪いでです、もう先生の歯に合うように合うように、もうあらゆる、やわらかい物を皆さんが、その、集めてくださって、料理をしてくださって、ほら、ほんとに、20年前のことから、今日のことを思うとです、天地ほどの、開きのある、おかげを頂いておるけれども、そういう働きがですね、私の、そういう、一期の願いという、その願いが、親にかけられたんです、私の場合は。それで、私、その当時を、思ったことは、もしね、そういうおかげ、両親が安心してくれる、喜んでくれる、て、そして御国替えのおかげを頂いたら、そのあくる日からまたもとの(もくあみ)に戻ってもいい、という願いでした、私は。
もちろん、それからだんだん、おかげを頂かせてもらうようになってですね、その親の、親と言う焦点が変わってきたことは間違いありません。いう、天地の親神様の願いであるところの、人の難儀が助かると言うか、人間氏子の助かりと言うことにです、または、金光教ですね、金光教の、いうなら、道の為に、働かせていただくということがです、そのことに、一生を、かけさせていただこうというふうに、願いがだんだん変わってきて、もう、親の事はだんだん、薄くなってきた。あんまり問題じゃなくなってきた。けれどもやはり、こうして、より高度な、基が親になってきたんですよね。
そして、ま、今日のおかげであります。ですから、必ず御造営とか御造園とかと言ったようなことじゃないことが分かりますですね、皆さん。自分がかけておる、懸ける一期の願いと言うのが、これなら間違いなく神様が、感動まします、喜んで下さると、と言ったようなことをです、自分の、信心と言うかね、で、そこに、ひとつ、一期の願いをかけさせてもらう、かけさせてもらうそのことにです、を、私は選択すると言うかね、自分はこれでいくと、言ったようなものをです、一つ、頂いて、そこに、本気で焦点を置いていくならです、自分のことが、願わんでも、今申しますように、御殿のようなと言われるようなお家に住まわせてもらい、温泉のようなと言われるようなお風呂に入らせてもらい、もう夢、風呂にでも入ろうと思わなかった私に、もうこれ以上の家に住もうとは思わんと言うような、私に、このようなおかげを受けておると言うことですから、ここに、神の、私の願いじゃない、神様の願いが、そこに、成就してきたんです。
私どもが、ここだけは、これだけはいっちょどうでんこうでんいただかんならん、どうでんこうでんいただかんならん、と言うことのですね、それが、よくよく考えてみて、これは、神様がほんとに喜んでいただくことじゃないと、気付いたら、その焦点を変えていかなきゃいけませんよ、より、より良い、ほんとのことへ。そして私はこれに打ち込んでいくと、言うものをですね、持たなきゃいけませんよ。
私は、それをほんとに、昨夜は、あの、その関さんところの、宅祭りの、後の御理解を頂いて、ほんとにそれをそう、私は実感しました。そして、今朝、頂かせていただきましたら、御理解百節を頂き、その後理解百節に出ておる、金光大神は、こういう道を教えるのじゃとおっしゃっるその道は、どういう道かと言うとです、御理解十六節に現れておるように、不可能を可能にしていくほどしの道である。そこの、体験をお互いが頂いてです、そして、より、いわば、めでためでたのと言ったようなおかげを頂く為にです、私どもの願いの焦点というものをです、もう一遍確かめてみて、これなら神様が喜んでくださる、俺が今願っておる、今私が願っておる、一生懸命のこの願いの焦点というものは、神様が喜んでくださらんはずはない。金光大神が喜んでくださらんはずはないと、いう願いに、切り替えてです、そのことに、打ち込んで、いけれる、信心。
教祖様は、なるほど、この御理解百節、のところの、おかげを頂く為に、教祖の教えてくださっておる御教えのすべてがあると、あの、言うても過言じゃないと思うんですけれども、ですけれども、ならどの御教えでも、私はそうだと思いますけれども、なら、そうだけれども、私どもの願いとしておるその、願いの焦点と言うものは、それぞれに違うのである。これならば、例えば自分のおかげをいただかんならんということが、大したことでもないことを、気付いたら切り替えなきゃいけんということ。その大したことでもない願いに、私どもが、ただ、一生懸命ほんとにただ打ち込んだだけではですね、それは、大したほんとの意味合いにおいての打ち込み、がた、打ち込んだがたの、おかげになってこないと言うことです。そういう心の切り替えのできるお繰り合わせをですね、やはりいただかなければなりません。
これは教えた、教えられたからといって、なら、関さんあたりの場合でも、出来たんじゃないですね、やはり、関さんの、一つの信心の、個性とでも言うかね、非常にあの積極的な方ですから、そういう時にそういうふうに、まあ、御造営の時に、たまたまほんとにそれを実感されたと。その実感された事がです、ね、その、実行されたと。たまたまと言うと、語弊、なんですけれども、それが、たまたまいうなら、神の機感に叶うとったと。神様のそれが願いであった。そこに、私どもが、願いにしておった願いが、ああして、成就していっておるんだと言うことを、思わせてもらいます。
そういうことの中から、私いよいよ、御理解百節に、教えておられる金光大神の、お心と言うか、を、ほんとに対して、そこんところにおかげが頂けれるような、金光大神の教えてくださった道をです、進まなきゃならん。漠然としたものじゃなくて、一つのそこに焦点が置かれての、信心。お互い、一期の願い、と、言いながら、思わせていただきながら、その一期の願いが、成就せんなり、すむ人がどのくらい多いか実際は分からんのである。けれどもこれならば絶対である。これならば間違いのない、と言う、私は一期の願いと言うものを、間違いのない、ところへ一期の願いを、置き換えて、いくところから、人間幸福の、いわば繁栄の道と言うのが、そこから開かれる。それは、どういう繁栄、道かと言うと、神様も喜んでくださり、氏子も喜べれる、いわゆる、信心共栄の道が、そこから開けてくる。そういう道を、金光大神は教えられた。しかもそれが、不可能ではない。いや、不可能と思われるようなことが、可能になっていくような道を、教えられた、と言うことに、なりますですね。どうぞ。
2005 5 11 kayotaro